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「かわいそう」は誰が決める?その言葉で奪われるものがあるとしたら?

このコロナ禍で、様々な経験の機会が失われました。
我が家の長男は小学校6年生でしたので、卒業式も中学校の入学式も、緊急事態宣言のさなかでした。
先日テレビで、新型コロナの影響で出場するはずの大会の代わりに、ジャニーズの皆さんと一緒にコラボするという企画をやっていました。

もしかしたら彼らは、その大会に出るためだけに何年も練習し、もしかしたら選ぶ高校でさえ、その大会のためだったのかもしれません。
それでも彼らは、「良い経験になった」と前を向いていました。

一方で、ジャニーズにあまり興味がなかったり、彼らの頑張りをずっと応援していた方達からしたら彼らは「かわいそう」だったのかもしれません。

人は、相手が大切であればあるほど、視点が狭まり、その瞬間だけを切り取ってしまいがちです。

では、「かわいそう」と言われた彼らは、自身を「かわいそう」と思っているでしょうか?
彼らがこの経験を糧に、さらなる飛躍をするという未来が見えていたとしたらどうでしょうか?

「かわいそう」というのは、その人が相手を慮って発する言葉です。
ですから、それ自体を非難したり否定するわけではありません。

ですが、その時、その状況だけを切り取って「かわいそう」とジャッジすることは、相手の未来への期待を奪うことにもなり得る言葉、とも言えるのではないでしょうか?

「かわいそう」と感じているのは誰ですか?

その状況に置かれた本人、ではないはずです。

本人が、「これを糧に私は次に向かって加速するんだ!」と思っているときに「かわいそう」と言われたらどうでしょうか?

本人がやってきたこと、これから努力しようと思っている事を否定することになってしまう可能性はないでしょうか?

「あなたは、あなたであればいい」

これをコミュニケーションで伝えることは本当に難しい。
身近であればあるほど、です。

だからこそ私たちは、自分自身が何を思ってその言葉を発するのか?なぜ今その感情になったのか?を誰よりも深く知り、分析しなければいけないと思うのです。

そうでないと、大切な人を「無意識に」傷つけてしまうことになるから、です。


大切なひとの、大切な想いを、一緒に大切にするためのコミュニケーションスキル

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